学徒動員(沖縄)

 日華事変が長期化の様相を呈してきた昭和十三年六月九日、文部省は「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」で、学校休業時に中等学校低学年は年間三日間、高学年と大学及び高等学校は五日間の勤労奉仕の実施を通達し、学徒の勤労動員が開始された。

 次いで、昭和十四年三月三十一日には「集団勤労作業運動実施ニ関スル件」で、中等学校以上に対し集団勤労作業を「漸次恒久化」することになり、学校の休業時以外でも随時実施し、正課に準じた取扱いをすることになった。

 太平洋戦争開戦直前には「国民勤労報国協力会」が制定され、国民皆働がうたわれた。 太平洋戦争の勃発に伴い勤労動員体制は一段と強化され、昭和十八年六月二十五日には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、決戦段階に即応した「有事即応体制の確立」と「勤労動員体制の強化」が図られた。

 さらに、昭和十九年一月十八日には「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され、勤労即教育として年間四カ月の動員が決定された。政府は、こうした時局に鑑み、昭和二十年三月十八日の閣議で「決戦教育措置要綱」を決定し、「国民学校初等科を除き学校に於ける授業は昭和二十年四月一日より昭和二十一年三月三十一日に至る間原則として之を停止する」ことになった。

 決戦体制下に突入した沖縄の師範学校を始めとする各中等学校及び青年学校の生徒は、昭和十八年から各部隊に協力し、陣地構築、食糧運搬、その他の戦力増強に学校ごと動員されるようになった。

 十・十空襲で校舎を失い、戦争の緊迫はいよいよ高まり、学業はほとんげ停止状態となり、軍事教練と軍施設建築作業の連続であった。

 昭和十九年十二月、中学校生徒の戦力化が、軍と県の間で協定策定がなされた。真栄田義見県学務課中学校教育行政事務官と三宅忠雄第三十二軍司令部通信参謀(少佐)との間で、次の取決めをした。

 敵上陸に備えて、中学下級生に通信訓練、女子校上級生に看護訓練を実施し、沖縄が戦場になったとき、それぞれ学徒通信隊、学徒看護隊として動員し、学徒通信隊は軍人、学徒看護隊は軍属として扱う旨決定し、昭和二十年一月から教育が実施された。

 昭和二十年三月二十日から各中等学校は、訓練を受けた生徒を中心にそれぞれの部隊から入隊するよう命令を受けた。三月二十五日頃から各学校の生徒は職員とともに、それぞれの部隊に鉄血勤皇隊、通信隊、従軍看護婦隊として入隊した。

 鉄血勤皇隊は入隊と同時に陸軍二等兵に任ぜられ、原則として小銃、弾薬、帯剣、階級章、軍服、軍靴を支給され、斬込み、偵察、伝令、通信、立哨、陣地構築、弾薬糧抹運搬、担架運送などの任務付与をされた。特に、地理に明るいこと、行動の敏速さを活かして夜間斬込みの道案内、偵察、伝令などに活躍した。


 学徒隊はもともと補助戦力とみなされていたが、戦況が不利に傾き日本軍の兵力損耗が増すにつれて敵陣斬込み、対戦車肉弾攻撃などに出撃させられることもあった。

 女子学徒は主として看護婦業務に従事し、一人の学徒看護婦が三十名の重傷患者を看護するという多忙にもかかわらず、心身の疲労に堪えて献身的に努力した。

 恩納岳・本部半島の護郷隊の隊員になった者たちは、激戦の第一線に立って交戦し多数の戦死者を出した。

                                                           (「沖縄県警史第二巻」)
戻るトップへ        「学徒動員の実態」へ