陸軍海上挺進戦隊

一  軍が行った海上特攻
 昭和19年2月、米軍はマリアナ諸島・ニューギニア西部に進出、フィリピンはもはや目前に晒されていた。さらに、やがては沖縄侵攻も予測されるなど、戦局は日本にとってまことに憂慮すべき状況にあった。すでにわが航空戦力の消耗ははなはだしく、敵の進撃を阻止するには、敵船団を上陸する前に撃破する以外になかった。ここにおいて、同年7月陸軍海上挺進戦隊が結成され、訓練が開始されたのである。

 その任務は、上陸準備のため泊地にある敵船艇に250キロの爆雷を装着したベニヤ製のモーターポートによって、夜間奇襲こよる肉迫攻撃を加え一艇をもって一船を屠ることであった。

 結成された陸軍海上挺進戦隊は、隊長には陸軍士官学校51期・52期・53期・54期の若い少佐と大尉があたり、中隊長には陸軍士官学校57期を主体とした中尉・少尉がその任に就いた。また群長(小隊長)には18年12月に学徒出陣した船舶幹部候補生第10期・11期を主体とし、更に12期の見習士官及び各地の幹部候補生隊から採用された見習士官が任に就き、一般隊員としては船舶特別幹部候補生の、当時16才〜18才の少年兵が主として充当された。戦闘の主力をなしたのは、この年若い少年兵たちであった。

 全軍より選抜された、16才から25才の若き精鋭たちは昼夜を分かたぬ猛訓練の後、19年10月、30コ戦特効艇組織隊の編成をもって、おのおの最後の決戦地、フィリピン・沖縄・台湾に展開を完了した。

 これら陸軍海上挺進戦隊は国軍の大きな期待を担って、短期間に部隊を編成、不慣れな海上において無防備の特攻艇を操らなければならなかった。もちろん生還を期すことはできない。こうした不利な条件下で、敵船艇を撃沈すること数十隻という嚇嚇たる戦果を上げたのだ。しかし、当時は隠密部隊として、まったく世に発表されないまま終わっている。

 青春のすべてを抛って鬼神のごとき攻撃を敢行し、再び帰らざるもの1,636名の多きに及んだ。陸軍海上挺進戦隊の業務は、その家族と国を憂う純粋な心とともに、永く青史にとどめなければならない。

二 陸軍海上挺進戦隊編制

 海上挺進戦隊は、戦隊長以下104名、マルレ百隻をもって編成した。戦隊は戦隊本部(戦隊長以下11名)と三コ中隊(中隊長以下31名)からなり、更に中隊は中隊本部(中隊長以下4名)およぴ三コ群(各9名)とからなり、戦隊を戦術単位、中隊を戦闘単位とし一コ群(九隻)を行動の最小単位と定めた。各艇乗員一名但し戦隊長及び谷中隊長艇のみ指揮艇のために、複座方式とした。また部隊装備として自動小銃四挺、各戦隊員はそれぞれ拳銃(26年式・弾丸六発)と軍刀(40年式)を装備した。

海上特攻艇

三 動員及び配備

 昭和19年9月1日から中旬にかけ、江田島町幸ノ浦において第一〜第十戦隊が編成を完結し、ついで10月上旬から下旬の間に第十一〜第三十戦隊の編成を完結した。 このほか、本土決戦準備のため、更に第三十一戦隊から第四十戦隊まで及び第五十一、第五十二戦隊が編成を完了して展開した。また第四十一乃至第五十戦隊およぴ第五十三戦隊は仮編成のうえ訓練中に終戦を迎えた。


一 発足の経緯
 昭和18年9月29日、船舶部隊の拡大にともない、船舶兵種を創設し、同年11月船舶特別幹部候補生制度が設けられた。この頃、落下傘部隊の菅原久一大尉(陸士51期のち海上挺進第10戦隊長)が、自ら率いて敵にあたるため、速力五十節くらいの高速艇の作製を陸軍省に意見具申した。中央部はこの種決死兵器には同意しなかった。

 昭和19年4月、陸軍船舶司令部(広島市宇品)内で、鈴木宗作司令官以下関係者の問に、海上の防衛は航空部隊のみに任せることなく、船舶部隊自らの手で実施すべきだとの意見が強まった。そのため簡単で軽量の攻撃艇を、あらかじめ敵の予想上陸正面に配置し、奇襲によって上陸船団を側背から攻撃する着想をたて、野戦船舶本廠に舟艇の試作を、また戦法等について船舶練習部にそれぞれ研究を担当させた。

 また、これとは別に、大本営陸軍部でも、この目的のため、兵器行政本部と第十技術研究所に、肉迫攻撃艇の開発を命じていた。

 19年7月海軍の「マル四」艇と陸軍の試作艇の比較試験を行ない、各種の要件を充すことで、第十技術研究所の試作になる甲一号型を採用することに決定した。

   この艇は、長さ5,6米、幅1,8米、吃水0,26米、満載排水量約1,5噸、最大速力20〜24節、航続時間3,5時間、250瓲爆雷一個装備のベニヤ板製の半滑走型「マルレ」で、秘匿名称を連絡艇と称した。中央部では肉迫艇の意味を込めて「マルニ」と称していた。

 昭和19各8月十ヶ戦隊の仮編成が小豆島船舶特別幹部候補生隊において完了、豊島における「マルレ」の訓練が開始された。
海上特攻艇配置図二 部隊運用の構想

 絶対的な制空制海権下に進攻作戦を展開している米軍に対し攻撃必成を期するため、次の運用方針が定められた。

○現地の最高指揮官 (通常軍司令官)が直轄して運用する。これは、一局部の戦況に眩惑されず、敵の上陸企図を的確に捕え、つとめて多くの攻撃艇を一斉に統一使用するためであった。とくに、初回の使用時期の判断は、当該作戦軍のみならず全陸軍同種部隊の命運をも左右すると考えられた。

○企図の秘匿を絶対の要件とする〜この着想は、陸軍にとり有史以来の新企図であり、一たび敵に暴露すれは、この艇の脆弱さと自衛能力の不足から、容易に対応の処置を講じ得られるものであった。これがため、国内における艇の製作装備はもとより、この種部隊の存在・配置・戦法等全般にわたり、企図を秘匿することが作戦成功の絶対的要件であった。

○基地の秘匿、掩護の強化〜「マルレ」部隊は、泊地に進入して来る敵輸送船もしくは軽艦艇を目標とした。一方艇の航続力の制約から、部隊の展開は当然予想敵上陸正面付近に限定された。したがって徹底した敵の砲爆撃による制圧に耐えることが必要であり、このため基地の秘匿と掩護は絶対的なものであった。

○攻撃は、大量による奇襲とする〜敵は通常膨大な戦力を投人して上陸を強行する。これに対し期待する効果をあげるためには、大兵力を投入し、かつあらゆる方向から同時に攻撃を行ない敵の対応を困難にする必要がある。また既にのべた艇の特性から、夜間における奇襲によることを必須の要件としていた。

○攻撃の要領〜戦隊長の指揮のもと、軍の命令に基づき、日没後に舟艇を注水し、一コ戦隊(百隻)または一コ中隊(三十隻)ごとに航行、敵の護衝又は警戒艦艇に遭遇した場合は、その一部をもって体当り攻撃を行わせ、主力の舟艇群をもって目標に突進、三ないし九隻が一団となって攻撃を実施する。

 これに先だち、本島西南方の慶良間海峡は、米軍にとり恰好の洋上補給と艦艇修理の基地であるため、これを重視した攻略部隊は、第七十七歩兵師団をもって、3月26日攻撃を実施した。慶良間列島には、「マルレ」部隊の第一乃至第三戦隊が展開し、敵上陸部隊の泊地侵入後、その背面から攻撃する計画であったが、出撃の条件未完のまま不意の急襲をうけた。そのうえ各海上抵進基地大隊は、沖縄本島から他に転用された第九師団の後詰め部隊となり、その一部を残置して主力は既に本島に転進しており、対上陸作戦能力は微弱になっていた。ここにおいて第三十二軍は作戦全般に及ぼす影響を顧慮し、三コ戦隊に対し「マルレ」艇の破棄を下令した。

 時あたかも慶良間列島所在「マルレ」部隊の戦備状況を視察中であった軍船舶団長大町茂大佐一行は、急遽軍指令部に帰還するため、自沈を免れた第三戦隊の二隻に分乗して出発したが、大町大佐の艇は洋上で消息を絶った。一方第二戦「マルレ」隊の第一中隊は、慶良間列島中の慶留間島に分駐していたが、3月28日未明、大下真男中隊長(陸士57)以下十六名が、「マルレ」四隻に分乗し出撃を敢行し、慶良間海峡で米駆逐艦一隻を撃沈、輸送船二隻を撃破したとの戦果が報告されたが、米軍側の記録では、攻撃をすべて撃破し実質的な被害は無かったとなっている。

 敵上陸部隊は、沖縄本島上陸に先立ち、上陸正面と運天港の特殊潜航艇および海上挺進攻撃基地を徹底して制圧した。この砲爆撃に耐え、3月29日第二十九戦隊の第一中隊長中川康敏中尉(陸士56)以下十七名が、十七隻の「マルレ」を注水し北谷西方の米艦船を攻撃し、中型艦一隻を撃沈し二隻を撃破した。この攻撃で十六名が戦死した。米軍の資料によれば、「「マルレ」はエンジンの騒音と月光に照らされた航跡の夜光虫とで発見され、激しい砲撃で輸送船に接近出来ない状態であったが、一隻が砲火を突破し520噸のLSM12に衝突、船は中央に大穴をあけられ、応急修理で持ちこたえたが、4月4日沈没した」と記録されている。

 糸満付近に展開していた第二十六戦隊は、4月7日(米軍資料では4月9日)船舶工兵第二十六連隊の神山島の米軍砲兵陣地への斬込みに呼応し、軍命令にもとづき第一中隊二十隻が出撃、第三中隊は岸本具郎中隊長(陸士57)以下二隻がこれに連繋して攻撃を実施し、駆逐艦一隻輸送船二隻を撃沈したほか火柱三を望見することが出来た。米軍資料によれば、「4月9日3時、(「マルレ」隊は基地より暗夜をついて出撃した。4時2,050噸の駆逐艦チャールズ・J・バッジャーは、海岸砲撃任務を完了したあと停泊中、暗闇の中から「マルレ」艇の攻撃をうけて犠牲となった。バッジヤ−が射撃を始める前に爆雷を投下し闇の中に消えた。爆発により機関室に大浸水が起こり、戦死者は出なかったが、艦は浮力を保てなくなり、慶良間海峡まで曳航擱座し、再び戦闘に参加し得えかった。駆逐艦パァデイは、集中砲火で「マルレ」の接近を阻止し、そのため投下爆雷は遠くて被害をまぬがれ、三一八トンの攻撃輸送船スタ−も至近爆雷を受けだが、被害はなかった。小型揚陸艦LSM89は体当たり攻撃を受けたが、被害は軽微であった。また駆逐艦ポーターフィールドも被害を受けた。「マルレ」の攻撃に対する射撃のため、各艦はしばしはお互いの流れ弾により被弾した。艇が全部沈められても、泳いでいる「マルレ」生存者が手榴弾をもって攻撃してくるので、射撃を続けねばならなかった」と記されている。

 4月10日、第二十六戦隊第二小隊野田耕平見習士官以下10名が、各個攻撃を実施し、全員が帰還したが、戦果は不明であった。4月15月第二十六戦隊長足立睦生大尉(陸士53)以下二十二隻が、嘉手納西方海面の米軍艦艇を攻撃し、駆逐艦一隻艦種不詳一隻を撃沈、艦種不詳三隻を灸上させ、そのほかに火柱六を報告した。同日付の米軍資料によれば、機雷掃海艇YMS31が「マルレ」の攻撃で大破したとなっている。

 4月26日、第二中隊は十五隻をもって出撃準備したが、砲撃及び不測の誘発事故により出撃不能となり、中隊長及び他の一艇のみをもって駆逐艦を攻撃した。4月27日第一中隊は十二隻をもって嘉手納沖の艦船を攻撃し、輸送船一隻、駆逐艦一隻を撃沈したと報告された。

 第二十八戦隊は、4月27〜28日夜、第三中隊長小林浩三少尉(陸士57)の指揮する二コ群(二十三隻)で、具志頭付近から中城湾に出撃したが、戦果は不明であった。米軍資料では、「4月27日中城湾において一隻の「マルレ」艇が、2,050噸の駆逐艦ハッチンズを吹き飛ばした。「マルレ」艇の体当たりにより、艦は数フィート飛び上がり左舷のエンジンとスタリュー軸が破損し、18名が負傷し艦は終戦まで使用不能となった。また2日後に、ロケット砲艦LCS37は、体当たり攻撃をうけ艦は大破した」と記録されている。

 5月3日の第三十二軍の総攻撃にあたって、戦線左翼西海岸正面では、第二十七戦隊第一中隊、第二十八戦隊の主力及び第二十九戦隊の一部をもって、船舶工兵第二十六連隊の兵員を乗せ、那覇港を発し大山付近に逆上陸を実施し、右翼東海岸正面では、第二十七連隊の第二・第三中隊約二十隻をもって、中城湾およぴ勝連半島付近の輸送船団を攻撃し、駆逐艦一、上陸用舟艇二、大型輸送船三を撃沈した。この戦闘で、戦隊長岡部茂己少佐(陸車52)以下23名が戦死した。

 5月中旬第二十八戦隊は川島見習士官以下六隻で嘉手納沖に、5月23日麻生少尉以下九隻で嘉手納及び那覇沖に出撃、27日には第二十七戦隊の第一中隊が残存全艇で出撃を行ったがい戦果は確認されなかった。この出撃をもって海上挺進作戦は終了し、接存の戦隊員は陸上戦闘に参加、その殆どが戦死をとげた。


 策三十二軍直轄  海上挺進戦隊
 船舶特攻隊というものが海上挺進戦隊として編成されたのは戦争も末期に近づいた昭和19年8月である。特攻艇は船幅1,8メートル、船長5,6メートル、船体はベニア板張りで60馬力のトヨタ、ニッサン自動車ガソリンエンジンを積み、重量1200キロで時速33キロであった。

 防諜名は連絡腱「マルレ」と呼ばれ、乗組員は一人で、その後部に円筒形爆雷(120キロ)二個を装着し、目標の艦船に突っ込むと爆雷が脱落して爆破するようになっていた。乗組員は平均年齢18歳の中学校を卒業したばかりの少年幹部候補生であった。三隻の特攻艇が一隻の艦船を目標にして同時攻撃、こっそり近づいて発見されしだいスピードをあげて先頭の艇が突っこみ、残りは爆雷を落としてターンする隊本部、中隊三からなる。特攻艇は各中隊、中隊指揮班、特攻艇三、三群に区分、一群は特攻艇九、計三十隻。隊本部が十隻。合計百隻の特攻艇をもっていた。

 第三十二軍では第一〜第三が慶良間列島の座間味島、阿嘉島、渡嘉敷島に配備され、第二十六戦隊が糸満、真栄里、国吉の海岸に第二十七戦隊が与那原、板良敷、第二十八戦隊が港川、志竪原、第二十九戦隊が北谷村白比川岸辺に沖縄本島に四戦隊、計七ッの海上挺進戦隊があった。

    各基地大隊の要員として沖縄現地で召集された防衛隊員がそれに当てられ、特攻艇を秘匿壕の中へ入れたり、海へ運び出したりする重労働が課せられていた。沖縄本島地区の海上挺進基地大隊は、昭和20年2月中旬臨時に歩兵大隊に準し改編され、独立混成第四十四旅団の指揮に入り、具志頭村玻名城附近の戦闘で壊滅した。
「知念村史」


 「沖縄方面陸軍作戦」(防衛庁防衛研修所戦史室)

 海上挺進第二六戦隊の出撃 〔注 以下特に注記するもののほかは海上挺進第二十六戦隊戦記による〕海上挺進第二十六戦隊は昭和19年12月14日渡嘉敷島に一時上陸し、20年1月1日から本島の糸満(那覇南八粁)地区に移動し3月3日までに次のように配備された。

 戦隊本部 国吉(糸満南東)部落付近、舟艇は海岸秘匿壕
 第一中隊 眞榮里(糸満南)部落付近、舟艇は海岸秘匿壕
 第二中隊 名城(眞榮里南)部落付近、舟艇は海岸秘匿壕
 第三中隊 糸満部落付近、舟艇は海岸秘匿壕
 海上挺進基地第二十六大隊の一部が戦隊長の指揮下

 注 海上挺進基地第二十六大隊主力は、20年2月中旬独立第二十六大隊に改編されて歩兵第三十二聨隊長の指揮下に入った。

 4月7日海上挺進第二十六戦隊〔戦隊長 足立睦生大尉(53期)〕は、8日夜神山島の斬込隊に呼応して嘉手納沖の輸送船団を攻撃すべき命を受け、戦隊長は「9日零時出撃、0300船団攻撃」の計画を準備した。

 8日夕各隊は出陣式を行ない、ぼうう泛水作業にとりかかったが、干潮時のため長距離のリーフを搬送することとなり作業は困難をきわめた。

 注 水路部潮汐表によれば、20年4月8日高潮0445、1600、低潮1030、2245、9日高潮0515、1705、低潮1120、2340である。 各隊の出撃状況は次のとおりである。

 第一中隊(隻数不詳であるが約二十隻と筆者推定)は9日零時糸満付近を出発し嘉手納沖船団を攻撃、未帰還者掛谷各義雄見習士官以下9名であった。

 第二中隊は泛水作業が遅れ出撃後天明となったため、一部は那覇港、大部は基地に帰還した。

 第三中隊も泛水が遅れ、中隊長岩本具郎少尉(57期)の指揮する二艇のみが出撃し、残余は出撃を中止し秘匿壕に再収容した。

 第三十二軍は出撃状況を次のように報告した。
 「海上挺進戦隊(特攻艇三七隻)糸満ヨリ嘉手納泊地ノ艦船攻撃ス 攻撃成功一二隻、沈没七隻、帰還一入隻、戦果撃沈駆逐艦「魚雷艇二、大火柱三」

注 米国海軍作戦年誌によれば、4月8日特攻艇により駆逐艦一隻(東経127度39分、北緯26度18分)、上陸作戦資材輸送艦一隻(東経127度44分、北緯26度20分)が損傷を受けている。
 海軍射堡隊の艦船攻撃 沖縄本島馬天港(與那原南東)に配備されていた海軍の射堡隊(海岸から魚雷を発射するよぅに設備)は、8日朝中城湾に侵入した米艦艇に対して魚雷五本を発射し、戦果は駆逐艦二隻轟沈、掃海艇一隻大破と報ぜられた。
「沖縄方面陸軍作戦」(防衛庁防衛研修所戦史室)朝雲新聞社


証言1                          金城 亀二
 わたしは二回目の防衛召集で、第一回の人たちは東風平の記念運動場に入りましたが、わたしは兼城村の照屋部落の船舶特攻隊の大隊の第三中隊に防衛召集されて、向こうでも班長を勤めておりました。

 最初は分散して個人の家にお世話になりました。点呼は照屋部落の公民舘の前で受けておりました。夜は艦砲、昼は機銃掃射が激しいので、船舶隊の仕事は、午後5時頃から真栄里の後の防空壕で昼は整備をして、晩に海岸まで出すことになります。うちの中隊は、線路を引いてあったんですが、爆撃が激しくって、昼はほとんどやられっぱなしで、晩に補修工事として、木の枝を切って来て擬装してあるんですが、低空で偵察するからすぐ見破られてしもうんですよ。しよっちゅうやられて、線路を補修してまた擬装するんですよ。船は海の深さは1メートルくらいのところまで出すんですが、干潮の場合は、糸満の海岸は、一里くらいまで干上りますから、夜通し担ついで、肩はほとんどはげておったんです。船舶隊の下士官の方はちょっとのことでも鞭でたたくんですよ。肩が痛くて坐ったら、またたたくんですよ、だから我慢して歯をくいしばってです、海の潮のあるところまで担いで行くのですが、爆雷は船尾に詰めるんです。これは3名で担ぐんです。一つの特攻船に二個ずつ詰めます。船舶隊はほとんど下士官だったです。目の前には前の方に大型で戦艦でしょうな、真中に駆逐艦、ずっと後の方は橋だけしか見えませんでしたよ、輸送船団は。

 そうしてこの船舶特攻隊は、巧いこというんですな、実際面では全く効果はないんですが、大きな法螺を吹いてですね、今日は戦艦を撃沈させたなどいって、朝がたに帰って来るんですな。
 この船を線路に上げることもできない、水がいっぱい入っていますが、船体は、ベニヤですから、底を突きほがして水を流してからまた担いで線路まで持って行って、それから防空壕に持って行って避難させる。そればかり毎夜繰り返しておるんです。それでわたしたちは線路も修繕して偽装したり、舟艇も修繕したり、そうするうちに暗くなりますね。この舟艇は毎日来なくなりますな。毎日減る一方ですよ。十五隻だったでてがね、うちの中隊が。二中隊は真栄里部落の壕で、一中隊が小波蔵だったですが、二中隊の方はわたしたちは羨ましいと思いました。向こうは、特攻隊の舟艇はタイヤー付きでありましたから、干潮の時も押して行きますからね、ここは命令で担いでですよ。

    後で舟艇が無くなりました。最初は出て行って帰って来ました。今度は逆上陸させて、読谷の飛行場を取り返すといって、読谷の飛行場はアメリカに占領されているでしょう。それで糸満の刳舟をですね、四名で一隻ずつ、豊見城村のタングムイ(この池は、川の幅が広がって池のようになっていたようで、ここも船舶特攻隊基地で、別の記録に出る。真栄里からこのタンギムイまでは、10数キロメートルの距離で、現在豊見城村役所や学校のある三叉路から、真玉橋に行くアスファルト路を下りて行くと高安部落の前に橋があり、橋から30メートル程行って「西方」へついている農道の突き当たりが、タングムイとのこと。艦砲やいろいろの弾の降る中を、重い刳舟を4名一組で運ばされた(らしい)まで担いで、向こうの高安の部落の前に橋がありましてね、そこを担いで歩かれないもんですから、よいっしょい、よいっしょいで、これは大変難儀しました。この刳舟は棒に釣て左右で担ぐんですが、この刳舟運びは、10日以上も続きましたよ。重いけれども四名で持てました。海に浮かべたままなら四名では持てませんが、浜辺へ上げて乾燥させて置いて担ぎました.勝手に盗んで持って行きましたが、盗むといっても放ったらかして主は皆避難しているんです。しかし、沢山の刳舟でしたが、これは何もなりませんでした(戦前の糸満は刳舟が生業の元手で、百をもって数えるほど、刳舟はあっただろぅ)。刳舟は監視もいないから自由勝手に取りたいほうだいです。

 船舶特攻隊は駄目になりましたから、今度は弾薬輸送隊に配属になりました。東風平村の友寄ですね、山川の近くですね。
(以下略)『県史第九巻』沖縄戦の記録一  

証言2 特攻艇の出し入れ 賀数 亀 
 その後、防衛隊に召集され、兼城村照屋に配置された。そこには防衛隊が30人ぐらいいた。しばらくは、一日交替で2人組んで、夜監視をしていた。南の方からアメリカーの軍艦が慶良問に行くのが見えたので、日本兵に「アメリカーの軍艦が通っている」と言ったら、日本兵は「日本軍が演習している」としか言わなかった。 翌日、慶良問から情報が入り、町原中隊長が「慶良間は取られた。特攻隊出撃」と言われた。

 夜8時から、真栄里の下で船舶特攻艇の船の出し入れを10人でやった。裸のまま海に入って舟を押すのでとても寒かった。そこには穴が五つあって、一つの穴に5隻の舟が入っていた。舟の大きさは長さ4,5メートル、幅2メートルで、ドラム缶ぐらいの大きさの爆雷が舟の後部に二つ載せてある。太刀を下げている人、つまり日本兵が操縦していた。アメリカの船の側まで行って爆雷を離してまた戻ってきたけど、1回も爆発したところを見たことがなかった。

 4回ぐらい照屋から真栄里に通って船の出し入れをした。船舶特攻隊で一人帰ってこない兵隊がいた。慶良間に打ち上げられて、頭もどこもかも穴が開いていたと言う話を聞いた。照屋には3週間ぐらいいた。(以下略)
                      『糸満市史』

証言3  海上挺身隊の防衛隊       古謝 景昌
 私は昭和二十年二月防衝召集を受け、海上挺進第二十八基地大隊に配属されました。宿舎は玉城村字志堅原の一民家でした。

 3月の下旬港川や奥武の橋は米軍機の銃撃を受け奥武橋の下に隠してあったベニヤ張りの特攻艇はほとんど沈没しました。また焼夷弾が志堅原の製糖工場に落ち工場の広場に積んであったキビは燃えていました。私たちの壕は志竪原の東地(採石場)へ行くところにありました。残った艇はこの壕に入れてありましたが、3月の未頃特攻艇は玉城村冨名腰の前のキビ畑の中へ運んだ。

   4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した日です。その日にキビ畑の中の特攻艇は全部炊かれてしまいました。わたくしたちの鈴木小隊は糸数の壕の中へ一時待機させ、私と玉城の人二人は伝令に出されましたが、そのときわたくしたちの目の前で、キビ畑の特攻艇はめらめら燃えていました。すぐ糸数の壕へ登って行って小隊長に報告しました。

    昼間の一斉攻撃で飛行機から焼夷弾を落としていたのです。その時に海上特攻に使う艇はほとんど焼失してしまいました。
 知念村から召集された防衛隊員は、はとんど第三分隊合羽兵長の分隊に属していました。小隊長が熊本出身の若い鈴木少尉で、海上挺進第二十八戦隊の隊長は本間俊夫少佐でした。この部隊は戦隊が宇品で編成され、基地大隊の兵は四国出身であった。基地大隊に配属された防術隊員は知念・玉城・具志頭・東風平の各村から召集された者で、他に海上挺進基地第二十七基地大隊が与那原に、海上挺進第二十六基地大隊が糸満の国吉、真栄里にあった。

 わたしたちの鈴木小隊は4月中旬ごろ玉城村糸数のアブチラ壕から大里村大城を経て、豊見城村高安に移動しました。特攻艇は冨名腰の前のキビ畑で焼かれてしまったので、これに代って沖縄の刳舟を使うようになり、一夜に二十隻ぐらいの刳舟が島尻各地の海岸から豊見城村高安の西谷口(タングムイ)に集められていた。

 4月28日夜、いよいよ戦隊長以下数集の刳舟で出撃するようになり、豊見城城跡の下の石火失橋(イシバーシ・わたしたちはメガネ橋といっていた。)から刳舟に爆雷を積みこむ作業をしていた。橋の下は干潮で舟が浮べられないので、舟が通れるように防衛隊が皆裸になって潜って泥を掘りおこし舟のとおれるようにし、また橋のらんかんから舟へ爆雷箱を手渡していたところへ砲弾が落下したのです。 そのとき新垣源勇軍曹がやられました。もういなくなっているよ、やられてしまったかと、気が気でなりませんでした。あの時死んだ人が皆下流へ流されていきましたので、てっきり新垣軍曹も流されたものだと思っていました。あのとき7、8名戦死しています、港川の人が多かったようです。

 5月3日夜船舶工兵隊の逆上陸が決行されました。防衛隊の中からウミンチュを出せということで海野、久高の人たちが、刳舟特攻の漕手として選抜されていきました。刳舟にフイヌイとトモヌイ二人が防衛隊のウミンチュで真中に戦隊の兵隊を乗せ、那覇港を出て北谷の浜へ逆上陸ということであったようです。ほとんど那覇港の入口でやられて一隻か二隻しか成功しかなった。安謝に上陸して、助かって帰ったのもいます。海野の前運天小の運天先勝さんは那覇港の入口でやられたという話をしていました、当時彼等は37、8才だったでしょう。海野で助かって帰った方がいましたが、戦後病気で亡くなりました。

 久高島の内間末七、内間新三、運天先勝さんがそのときの漕手でした。また久高島の内間順一さん久原の伊集盛義さんは牧港斬込隊の船舶工兵第二十六聯隊の兵隊を乗せて牧港へ敵前上陸しました。

 5月30頃もう米軍は真玉橋付近まで侵入しているということでその夜具志頭村与座仲座に下りました。(以下省略)

証言4  特攻艇担ぎの港川部隊            儀間 朝敏
 (前略)
 東風平から港川の部隊(海上挺進第二十八基地大隊)につれていかれました。古謝景昌さんもいっしょでした。知念村出身は皆いっしょで、合羽兵長の分隊に入りました。新垣武雄さんもいました。3月の末頃だったか志堅原の西方の特攻艇の秘匿壕から艇を全部出して、奥武島の橋の下に浮べて検査を受ける用意をしているとき、空襲を受け艇はほとんど沈没していました。あれから毎日昼夜兼行で水につかって引き揚げ作業をさせられました。あれはしんどかったです。久高・港川のウミンチュ(漁夫)たちは潜水作業もしていました。それでも全部を引き揚げることはできなく、引き揚げて残った艇も冨名腰まで担いで行きました。艇はベニヤ坂の船体にトラックのエンジンが取付けてあるので、そうとう重かった。松材の棒を四つに組んで15、6人で担つぐのですが、わたしは背が低いのでたいへんでした。人は糸数のアブチラガマに入って、艇は富名腰の前のキビ畑においてありましたが、これも4月1日の激しい攻撃で焼けてしまいました。それから豊見城村の高安へ移りました。豊見城城跡の下のメガネ橋(石火失橋)から船舶体の斬り込みが出撃しましたが久高の内間末七、内間新三、西銘順一。海野の運天先勝、運天先知さんが漕手として乗りこんで出ていきました。

 5月29日頃、米軍が真玉橋まできているという情報があって「よく注意して足音もたてず下りなさい」という南部へ撤退の命令が出ました。(以下省略)
           以上「知念村史」

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