中城湾要塞

1 経緯

(1)中城湾の要塞建設は大正十一年度に、狩俣(宮古島)、船浮(西表島)と共に計画にのぼっていたが、ワシントン条約の影響で延期。

(2)昭和16年7月28日…中城湾、舟浮湾に臨時要塞建設命令が発せられる(8月着工10月工事完了。与那原の部隊兵舎は翌年完成)。要塞は要塞司令部、要塞重砲兵連隊、軍病院などの編成。

(3)中城湾要塞司令部・歩兵部隊・兵舎が現在の与那原小学校敷地・与那原町浜田区(畑をつぶして兵舎)に設置。要塞重砲隊・歩兵部隊・野戦病院・兵舎・慰安所などが津堅島に設置された。

(4)以降の与那原
@昭和17年5月…中城湾警備隊が真和志(基地建設完了まで)から与那原(御殿モー)に移動。
A昭和18年…馬天の海軍の飛行艇や水上機を陸に揚げる桟橋、海中に斜めにコンクリート張る工事→与那原(当添)や津波古の民家の石垣を壊して運ぶ。
B昭和19年春以降…海軍陣地構築→与那原町当添(ダイナマイトを仕掛けて岩石を破壊する工事)
※施設工事…棟梁たちが与那原署に召集(指示命令)
○魚雷を保管する壕の建設→与那原町字板良敷入口山手の森のなか(トンネル作業)
○トロッコの線路づくり→与那原板良敷(さんご礁を掘削する作業)
※知念村の海野や久原の漁民
○球部隊の船舶中隊→板良敷
○海軍の陣地壕掘り→板良敷
○球第四一五二部隊重砲隊→与那原(御殿山付近)
○「海上挺進戦隊基地」(暁一〇一七三「海上挺身基地第二七大隊)
○特攻艇の発進場→与那原浜御殿山近く
○特攻艇の秘匿壕→与原(運玉森の麓)・与那原テック跡の山
○昭和20年…特攻艇の実戦訓練→防衛隊も含む。
○昭和20年の2月…新兵訓練→与那原

(5)以降の津堅島(「沖縄県史10巻」)
@十・十空襲後さらに増強され、新たに亭島秀雄大尉の率いる重砲兵一個中隊が進駐して、津堅地区隊が編成された。与那原に本部を置く独立混成四四旅団からの派遣部隊である。
A津堅地区隊の編成は次の通りであった。
隊長 重砲兵第七連隊一中隊長 亭島秀雄大尉(予)
重砲兵第七連隊第一中隊(約一三〇名)
十二糎速射加農砲二門、野砲二門、
独立混成第十五連隊第一中隊第三小隊(山崎実少尉以下三三名)
重機関銃四、軽機関銃三、てき弾筒三、
防衛隊津堅独立中隊 約四〇名、小銃若干、
補助看護婦 島民女子約三〇名

2 証言から
○昭和16年にはその特例もなくなり召集を受けた。私は、約一年してから与那原の歩兵隊へ派遣された。当時、現在の与那原小学校敷地には中城湾要塞司令部があり、要塞司令官の柴田大佐がおられた。現在の与那原町浜田区には、畑を潰して兵舎を造り歩兵部隊が駐屯していた。
○昭和17年5月、私は軍からの召集を受けて、陸軍の中城湾警備隊に配属され、中城湾の警備にあたった。当初、警備隊の兵舎は真和志(現在の真和志小学校の南側)にあった。私が召集された当初は、与那原の駐屯基地はまだ建築中であった。軍部は中城湾沿岸の各地に警備隊を駐屯させ、警戒していた。中城湾の入口にあたる津堅島や久高島にも警備隊を駐屯させていた。
 その後、建設中だった与那原の兵舎が完成したので、本部は真和志から与那原へ移ってきた。兵舎は与那原の御殿モーにあった。現在の与那原小学校の南側は全部兵舎だった。
○昭和18年、私は高等科を卒業しないうちに、馬天の海軍の飛行艇とか水上機を陸に揚げる桟橋、海中に斜めにコンクリート張る工事に徴用されました。この工事では、与那原の当添や津波古の民家の石垣を壊して、馬天港の桟橋に使っています。
○ 昭和19年の春頃だったと思うが、島尻郡内のめぼしい棟梁たちが与那原署に召集され、軍の施設工事には率先して従事するよう、指示命令が下った。
 初めに、馬天港の海軍の桟橋工事に駆り出された。その工事はまず、桟橋の幅員を拡張し延長するために波の打ち寄せる所で、山原船から積み降ろされた三メートル以上の松の柱を]型にネジどめして杭をつくり、それを水中に打ち込む作業であった。]型の杭を打ち終えると、次に横板を何枚か打ちつけ、その内側に大きな石を運び入れるのである。作業中は少しの油断も許されず、ぼんやりすると石もろとも波にさらわれる危険があった。
 この工事のために運ばれてくる石は、字津波古、新里、兼久、佐敷辺りの民家の屋敷囲いの石垣を壊し、徴発したものであった。屋敷の主は、祖先の築きあげた屋敷囲いが取り払われるのをただ見守るのみであった。

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