小禄飛行場

1小禄飛行場の変遷

○1933年(昭和8)…小禄海軍飛行場が沖縄県で最初の飛行場として完成(幅200m、長さ700m)
○1935年(昭和10)…初就航、福岡─小禄─台湾の定期便。
○1936年(昭和11)…民間飛行機の初飛行。「那覇飛行場」と改名。管轄も逓信省に移行。
○1939年(昭和14)…拡張工事。本土と台湾の補給中継基地としての役割。
○1942年(昭和17)…管轄が逓信省から海軍省に再度移る。
○1943年(昭和18)…拡張整備ととに、佐世保鎮守府の海軍部隊が移駐する。
○1944年(昭和19)…佐世保守備隊を中核として第四海上護衛隊と沖縄方面根拠地隊が編制された。同年5月、第32軍、沖根(沖縄方面根拠地隊)、第4海上護衛隊の三者での協定により、「米軍が沖縄に上陸した場合には、沖根は第32軍の指揮下で地上戦闘を行う」と規定。沖根司令部は奄美の旗艦にあったが、同年8月9日、小禄の航空基地に移動。(「」海上護衛隊も兼務」が2月に分離)。沖根司令官に大田実少将が継続指揮をとる。

2 沖縄方面海軍根拠地隊の設立

○昭和19年…沖縄方面海軍根拠地隊が設置。8月、司令部が小禄村鏡水に移動。海軍の各部隊はすべて統括され、沖縄戦に備えて強化された。
○昭和20年3月はじめ…米軍の艦砲空襲により、根拠地隊司令部も豊見城に移動。後、現在の海軍壕に入る。(兵員約3千人)
○5月中旬…飛行場周辺の守備→首里方面に陸軍の応援(司令部も一時移動)。
○5月24日…司令部、豊見城の司令部壕に戻る。

※これ以降にはいくつかの証言・諸説がある。
○5月下旬…首里陥落→陸軍の南下。海軍の南下も命令。(「米須、名城、喜屋武あたりの自然壕にはいってゲリラ戦に備えよ」)
○5月26日…機銃陣地などを爆破しながら南下(真栄平・現糸満市)。
○海軍と陸軍の作戦の食い違い…(陸軍は壕の民間人を追い出して、軍隊が壕にはいって戦うというのだが、海軍の司令官はこれに怒って、「軍隊というものは住民を守るのが目的であり、これを艦砲射撃にさらすのは忍びない」。(「那覇市史」)
○5月28日…豊見城の司令部壕に復帰。陸軍との共同作戦を破棄し海軍は元の陣地を死守したが玉砕した。
[別の説1]
○当初沖根の南部撤退は6月2日以降を予定していたが、連絡のミスで沖根は、5月26日に南部に移動を開始した。
○5月28日…32軍の小禄地区修復の命令がだされ、沖根も命令を誤解していたことを知り、ただちに小禄へ復帰し、29日完了した。
[別の説2]
○32軍は、全海軍に5月28日を期して東海岸よりの玻名城村落の新しい防衛線まで撤退するように命令した。沖根は、運搬できない兵器や機械を破壊し、5月26日南部へ撤退した。
○ところが、配置区に不満をもった将兵たちが、小禄への復帰を懇願したので、大田司令官は、陸軍(32軍)に連絡することなく、海軍の単独行動をとるべく小禄に復帰した。
[別の説3]
○撤退は6月2日となっていたが、32軍の命令電報を読み違え、5月26日から撤退を開始した。32軍がそれを知ったのは28日で、急遽海軍部隊の小禄復帰を命じた。
[別の説4]
○兵器を大型機械を破壊して、26日南部へ撤退した。大田司令官はその旨佐世保鎮守府へ打電している。しかし、32軍が軍隊用語でいう「過早後退」と断じ、小禄復帰を命じたので、小禄に復帰した。
(「豊見城村史」)

戻るトップへ