積徳学徒隊(従軍看護記録)        

1 東風平国民学校での看護教育[昭和20年(1945年)3月6日〜3月23日]

(1)看護教育の対象
 *積徳高等女学校・・・・・1班〜3班まで
 *第二高等女学校・・・・・4班〜5班まで
 *衛  生  兵・・・・・6班
 初年兵と同様厳しい訓練を受けた。4年生150名中半数以上は疎開、56名が看護教育を受けた。

(2)教育内容
 *人体の構造や名称、内蔵の働きなど。午前中の講義は午後にテストされた。
 *生活全体が厳しく、少しのミスでも激しく怒鳴られた。
 *『軍の飯を食った以上、君たちは軍服を着ない初年兵だぞ』とハッパをかけられた。 *家族の面会で数人が門限に遅れたので、全体責任として制裁を受けた。

(3)不寝番の仕事その他
ニ人一組でトイレや校合を一晩中交代で見廻り。

(4)班長の食事当番
二人一組で班長の部屋の入りロで「食事を持って参りました」と報告し声が小さいと怒鳴られ、何回もやり直しをさせられた。

(5)非常召集
夜中にあると、もんぺに着替えて、毛布をたたみ、靴を履き整列する。そして班長が真っ先に一人一人の服装点検をした。

(6)洗面・洗濯
洗面は水道、井戸、小川など、洗濯は小川を使い、きび畑の上で乾かしのんぴりした休日もあった。
※3月23日、米軍の猛爆撃が開始されたため、その日の夜56人の生徒は豊見城城跡にある第24師団小池隊第二野戦病院に配置された。到着後調書がとられ、結局56人中25人が入隊することになった。

2 豊見城の病院壕[昭和20年(1945年)3月23日〜5月26日]
最初、治療部、病室、薬剤本部に分かれたが、4月1米軍上陸後は患者が増加して治療部と病室だけとなった。

(1)治療部の状況(勤務内容)
 4月の上旬までは負傷兵の数も少なかったが、中句頃から負傷兵がどんどん運ばれてくるようになった。手や足の切断手術が連日行われ、また、内臓破裂で腸が盛り上がりむくむく動いている光景に合い、とても恐怖を感じた。
*死体処理
切断した、手、足や死体は砲弾の落ちた穴に処理した。そこにまた砲弾が落ち、その死体が飛散して服や肉片が周りの木の枝にぶら下がって、一帯はひどい悪臭を放っていた。

(2)病室の状況
病室は二段ベットで患者はすし詰めだった。包帯交替も始めは毎日出来たが、二日に一度、三日に一度となった。傷ロからは蛆虫がわき、ニ段ベットの上からポロポロと落ちる時もあった。脳症患者、腸チフス、バラチプス、破傷風患者は伝染病棟に収容された。熱発で苦しみ、暴れまわる人、体が硬直してベッドから土間へ落ちもがき苦しんでいる破傷風患者、そして膿や血の悪臭で通風も悪く壕内は地獄と化していた。

@ 排出物の処理(尿器はパインの空缶)
「尿器くれ」「便器をくれ」「傷ロを見てくれ」等と呼ぶ声を聞きながら、両手の指にパイン缶の尿器をはさんでせまい通路を必死になってかけまわった。

A 飯上げ
 二人一組になり、夕方砲弾が飛んでこなくなった合間を利用して運び、汁はこぼれて少なくなるときもあったが、皆の食事なので責任を感じた。

B 水汲みも(飲み水)二人一組でやる。砲弾の音に怯えながら坂道を登り降りした。

* 豊見城では25名全員が砲弾の犠牲にならずに済んだ。首里の軍司令部まで米軍が迫ってきたため、5月27日小池隊も南部糸洲へ移動することになった。その際、独歩患者は部隊に帰し、重傷患者は処置するよう命令されたが、軍医は「本来なら患者を治してやるべき医者が、例え戦争中でも命を奪うのは忍びない」と、患者一人一人に励ましの声をかけ、枕元に水や乾パンと手榴弾を置いて別れた。

3 南部へ移動(豊見城から糸洲へ) 

@ 5月27日夕方、衛生兵は医療器具、薬品等を運んだので、私達は自分の荷物と兵隊の雑嚢を背負い夜道を行く。(豊見城から糸洲の壕まで約8km)
A 壕を出てしばらくすると「看護婦さん、又やられたよ。」と、うずくまっている患者もいた。しかし、心にかかりながら手当ても出来ず、どんどん進まざるを得なかった。

B 暗い夜道、軍人も住民も右往左往する中、私達も前の人にはぐれないようについて行くのが精一杯だった。
C 道端に兵士や民間人が倒れ雨にうたれ、お腹が腫れた死体の側を通りぬけて行った。
D 看護隊は、幸運にも一人の犠牲者もなく全員無事に糸洲の壕へたどりついた。

4 糸洲の壕[ 昭和20年5月27日〜6月27日]

@ 糸洲の壕は静かで、安全な所で心も休まった。ところが、豊見城の疲れがどっと出て、ねてもねても睡眠が足りなかった。
A 鍾乳洞の中は毎日しずくが落ち、衣服や地下足袋は乾くことなく、足はふやけて、歩行するのも重かった。
B 休む場所もなく、柱や戸板を集めて休む場所を作った。戸板一枚に5、6名座った。

C その内に艦砲が激しくなり、6月17日、敵に馬乗りされ、洞窟の奥へ移動した。奥には、川があり左右に大きな土手があるところに戸板を置いた。
D その頃から、衛生兵は切り込み隊に転属させられ、仕事は全部看護隊にさせられた。
E 御飯は1日1回作ってくれた。

F 壕の入ロから毎日ガスがまかれ、最初は1日1回だったが、2回、3回と回数が増えた。一週間位続き、ガスが充満した時は呼吸困難になり、みんな苦しんだ。
G 爆弾が投げ込まれ、。火焔放射器で人口が焼かれた。
H 隊長は「戦争が負けると思えば、おまえ達を預かるんじゃなかった。」と話していた。

I 6月26日に解散命令が出た。その時隊長は「長い間軍に協力してくださりご苦労だった。」「……決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてくれ。」と言われ、看護隊の一人一人と別れの握手をした。
J 皆が壕を出て後、隊長は自決した。

積徳学徒隊年表

昭和19年
△10.10
 米機動部隊の艦載機延べ1400機、早朝より空襲、那覇は90%灰塵に帰す。校舎は軍が使用し、全校生徒は陣地構築、戦車壕掘り、砲弾磨きの作業をさせられる

昭和20年
△2.25
 第24師団山部隊から、将校以下三人の衛生兵が来校して、衛生看護の講義が4年生に行われた
△3.6
 4年生56名が東風平国民学校駐屯の第24師団の野戦病院で実習訓練を受ける(合宿)
△3.9
 4年生は卒業式の予定が行われなかった
△3.22
 敵機の空襲が激しく近くの防空壕に避難
△3.23
 急きょ豊見城城址の山3487部隊小池隊へ、従軍看護婦として正式に配属入隊
△4.1
 米軍、沖縄本島上隆開始
△5.27
 豊見城より真壁村糸洲の洞窟へ、野戦病院を移動
△6.22
大本営、沖縄作戦の組織的戦闘終結を発表
△6.23
 牛島軍司令官、長参謀長、摩文仁の軍司令部壕で自決
△6.27
 学徒隊に解散命令。小池隊長の指示を受け壕を出た。同日、野戦病院長小池勇助少佐自決。(糸洲の壕にて)

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