白梅学徒看護隊

  「白梅学徒看護隊」とは、一九四五(昭和二十)年三月六日から六月四日まで、「学徒勤労動員令」によって第二十四師団第一野戦病院(山三四八六)の従軍補助看護婦として、沖縄戦に動員された沖縄県立第二高等女学校の四年生、五十六名編成の学徒隊のことです。

  「学徒勤労動員令」とは、一九三一(昭和六)年からの中国大陸での戦争によって、日本国内の労働不足を補うためにとられた学生、生徒を動員するための法令です。一九三八(昭和十三)年から食料増産のための学徒隊が組織され、一九四一年より、軍事工場などへの動員が始まりました。一九四三年、学徒出陣によって、大学生、一九四四年になると中学生以上を動員する方針がとられました。これらは、まず本土で実施され、沖縄にも及んできました。

    県立第二高等女学校(略称、第二高女)の学徒隊を「白梅学徒看護隊」、または「白梅隊」と呼ぶようになったのは戦後のことで、沖縄戦に動員された県内各女学校学徒隊の、学校別を表して呼ばれるようになったものです。

  一九四五(昭和二十)年二月、県立第二高女の稲福全栄校長(戦没)は、第三十二軍司令部より、「生徒に看護教育を受けさせるように」との要請を受けました。
 前年の八月頃から、国策にそって県外や沖縄本島北部への生徒の疎開者が増え、更に、同年十月十日の那覇大空襲(十・十空襲)で県立第二高女の校舎が灰焼に帰したこともあって、県内にとどまっている生徒の掌握さえも困難な時期でした。

  那覇近郊や本島中・南部で避難生活をしていた生徒たちに、軍の陣地構築作業のかたわら、焼け残った知事官舎で、球部隊の衛生兵による看護教育が始まりました。
三月に入って、「四年生を補助看護婦として入隊させるように」との軍司令部からの命令で、稲福校長から生徒たちへ軍の命令が伝えられました。

     「疎開する者や家庭に事情がある者、身体の調子が良くない者は無理をするな」校長は入隊を強要はされなかったものの、訓話の端々には、若い君たちがこの沖縄を守らなければ誰が守るか。君達は是非居残ってお国のために働いてくれ…とのニュアンスを、生徒たちの誰もが感じ取っていました。
  看護教育を受けた四年生七十名ほどの中から、軍へ入隊した者は、今の所、確認されている数は五十六名です。

  生還した学徒仲間は、入隊時の気持ちを次のように話しています。
「全く不安はなかったね。戦争は絶対に勝つもんだと信じきっていたから…」「私たちが行かなかったら、誰が傷病者を世話するの…と、真剣に思っていた」「ただもうお国のために…という気持ちで一杯だったのよね」

   こうして、私たちは戦況の不利を知る由もなく、行く手に待ち受けていた想像を絶する悲惨な戦争の実態もわからないままに、「お国のために働ける」という誇りのような感慨を抱いて勇み立っていました。

                     『白梅・沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』から

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