遭難死没者数     表中※は数字に諸説ありを示す。
船 名 出港地 海没年月日 死没者数 遭 難 場 所
1 東 京 丸 17.5.25 不詳 沖縄近海
2 熱 田 丸 17.5.30 不詳 沖縄近海
3 大 見 丸 セルート 17.12.27 2 本邦南方
4 嘉 義 丸 神戸港 18.5.26 56※ 奄美大島東方海域笠利沖
5 八 重 丸 大  阪 18.8.26 3 大島沖
6 湖 南 丸 那覇港 18.12.21 645 口之永良部島西方約十浬沖合
7 横 山 丸 マニラ港 19.1 6 比島台湾沖
8 白 山 丸 19.1.5 26 比島台湾沖
9 赤 城 丸 トラック島 19.2.17 174 トラック島
10 ゆうぼん丸 19.2.17 1 トラック島
11 台 中 丸 神戸 19.4.12 163※ 古仁屋港近くの与路島沖
12 波 上 丸 19.5頃 1
13 白 美 丸 トラック 19.5.14 10 トラック島港外
14 美 山 丸 パラオ島 19.5.14 25 比島セブ島
15 千 代 丸 サイパン 19.6.3 16 小笠原沖
16 台 通 丸 大阪港 19.6.7 4
17 神 島 丸 ロ タ 港 19.6.11 12 南洋バラン島沖
18 新 島 丸 南  洋 19.6.21 5 ロタ島沖
19 富 山 丸 鹿児島 19.6.29 3700〜3900 徳之島と沖永良部島の海岸近く亀徳沖三キロ
20 朝 日 丸 バ ラ オ 19.7.18 3 小笠原沖
21 ア メ リ カ 丸 サイパン 19.8 12 小笠原付近
22 宮 古 丸 19.8.5 271 徳之島南方海上
23 八 木 丸 19.8.8 72 不詳
24 応 順 丸 バ ラ オ 19.8.21 7 ダバオ湾口
25 対 馬 丸 那覇港 19.8.22 1484 トカラ列島十島村悪石島の西北海上
26 江龍丸(推定) 石垣港 19.10.9 約500 久米島沖 (那覇沖)
27 広 善 丸 南洋テニアン 19.12 3 小笠原沖
28 松 竹 丸 宮古島 19.12.6 5 与那国沖
29 い ろ は丸 地大東西港 20.1.21 3 国頭村佐手沖
30 開 城 丸 那覇港 20.3.24 2 東シナ海
31 第5千早丸 20.7.3
32 一 心 丸 7 尖閣列島海上
33 安 福 丸 (友福丸) 11 台湾沖
34 千 早 丸 石垣港 20.8.8 88
35 照 国 丸 南洋 20.10.18 8 比島
36 台 北 丸 那覇覇 1 大島
37 栄 丸 基隆港 20.11.1 64
[説明]
1-米潜水艦の魚雷攻撃により沈没
2-魚雷攻撃で沈没
4-五月?日神戸港出港後、鹿児島に着いてからの船は湾に入ったまま五日間も停泊し、六日目(5月23日)に集まった七隻の客船に護衛艦が付き嘉義丸(二、三四三トン・貨物船・昭和十六年九月から大阪−那覇間に就航)を真中に船団を組んで出港した。
 鹿児島を出てから三日目、昭和十八年五月二十六日(午前十時三十分)、船底に二発の米軍潜水艦の雷撃を受けた。場所は、奄美大島笠利岬沖合いの七島灘(北緯二十八度五十分、東経百二十九度三十二分)である。
    六百人の内三二一人が犠牲となる。徴兵検査のため帰郷する者も乗船していた。
6-十二月十九日那覇出港、海軍少年兵受験に行く者二〇二名、軍需工場に働きに行く少年少女、満州開拓民等五六八人が乗っていた。右舷に米潜水艦の魚雷の二発受け沈没。約四〇〇名が柏丸に助けられたが三時間後に又雷撃された。各中等学校から乙種飛行兵の合格者も乗船していた。六四五人死亡、一〇人生存。
(証言)…夜半十一時頃、ドカンとやられたが、本船は暫らく浮いていたので多くの者が海に飛び込み、何かに思い思いにつかまって浮いていた。…何十分かが過ぎた頃救助艇に救い上げられた。よく見ると、阿嘉兄や上原、上江田君等もいた。…寒くてたまらんと温い機関室にもぐり込んで行った。…ものの数分もたたない中に、今度はこの救助艇が敵潜の餌じきに、撃沈された。一瞬の轟沈であった。…凡そ六時間、駆逐艦が来て救助してくれた。(「沖縄の慟哭」)
11 昭和十九年四月六日、神戸港を出港。乗客は一人の台湾人の他は全て沖縄県人で、老人・病人・夫が出征して食に飢えた妻子・風俗営業が廃止そこから閉め出された女給・食糧難の一家引き揚げ者・平和産業のため解散した紡績女工たちで占められていた。乗船者数は「乗船名簿がなく」定かではないが、遭難後の会社報告によれば三百人余りとなっている(大阪商船事故報告書)。しかし、生存者の証言によれば神戸港と鹿児島港での「飛び乗り」が多く一千名近くは乗っていたという。
 台中丸は三千トン余の貨客船で、神戸を出港後鹿児島に寄港し船団会議の決定を待ち、二日後の四月十日護衛艦「燕」に率いられ午後十一時二十分鹿児島を出港した。鹿児島では上陸させなかった。船団は台中丸、神祥丸、厦門丸、第十二南進丸と護衛艦の五隻で厦門丸は途中から船団を離れ名瀬に入港することにしていた。十一日目の夕方、古仁屋港沖に着いたがここでも上陸は拒否されている。
 遭難事件は、四月十二日、奄美大島西端、曽津高崎西南西方約二十五キロの地点与路島沖(北緯二八度〇八分、東経一二八度五七分)で、米軍潜水艦の二発による雷撃によって沈没した。
 救助者数は、船客七十八人、乗組員六十六人、警備隊員三人。死没者数は、船客約百五十人、乗組員九人、警備隊員四人となっている(大阪商船事故報告書)。別の記録では生存者九十人、死没者二百九人。また、証言者の証言では救助者数75名。そのうち、子どもは九十余人が乗船していたが、救助されたのは女の子どもの外に四、五歳になる男の子の二人。それから十二、三歳になる少年が二、三人。彼らのほとんどが両親を失い、収容された古仁屋からそのまま本土へ逆送させられた。
 古仁屋に収容された救助者は、憲兵隊から遭難したことを口外するな、外出もまかりならんと強い口調で言い渡され、外部との文通も禁じられた。岸本憲兵と称する者に「船のことをばらしたら、首を落すぞ…」とおどされた生存者もいる。みんなの体が快復すると、軍の壕掘りの使役も毎日のように出された。二カ月間古仁屋に留めおかれた。
 沖縄では台中丸が遭難したことは全然知らされていなかった。帰郷した一人は、故郷でスパイ視されている。また、遭難者の戸籍は「失跡」となっていて、役場が「自宅で死亡」にしてくれといっていきたり、事実の記述を拒否された人もいる(台中丸の遭難で死んだ、ということは一切書いてなかった)。
 一方、大阪商船株式会社の報告書では、兵隊(海軍)のことは詳しくしかも賛辞を呈して書いてあるが、船客のことについては、具体的なことは何一つ書いてなく、全く闇に葬られているのが分った(遺族の証言)。(「沖縄の慟哭」から)
19-六月二七日鹿児島出港、二九奄美大島古仁屋出港、二九日、午前七時四五分徳之島沖で米軍潜水艦に撃沈された。沖縄守備隊最初の部隊は、独立混成第四四第四五旅団の兵員を乗せ沖縄へ向かう途中だった。乗員四、六〇〇人のうち三七〇〇〜三九〇〇人を失う。生存者七〇〇人。
22-門司─那覇─台湾基隆航路の定期航路。乗客三四三人のうち生存者七二人。米潜水艦の魚雷攻撃で沈没
25-沖縄から九州へ疎開者を送るため、学童・一般合わせて一六六一名を乗せ、学童は八百余名であった。米潜水艦の魚雷攻撃にあい十一分後沈没。米潜水艦ポーフィン号。生存者は一七七名。学童は那覇市の各国民学校と美東、名護、古堅、具志川の国民学校であった。奄美大島の宇検村湾内に沿った部落は八月二二日以後おびただしい漂流死体の埋葬に多忙を究めた。
26-石垣島の飛行場工事のため徴用された沖縄本島住民帰途に遭難。那覇沖16キロメートル沖で爆撃を受ける
30-米潜水艦の攻撃と空爆により沈没
33-爆撃で沈没。魚釣島で餓死寸前のところを48日目に救助される。
資料─「沖縄県調査資料昭和57年調査」「知念村史」「佐敷町史」「沖縄の慟哭(市民の戦時体験)」その他

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