昭和天皇

◇軍人の素養も能力も十分にあった

 昭和天皇の軍人修業は十一歳で陸海軍少尉にな ったときに始まりますが、天皇自身に軍人としての素養も能力も十分あったことを示す記録や証言はたくさんあります。

 「主力艦のガ島砲撃計画を奏上せるに日露戦争に於ても旅順の攻撃に際し初瀬八島の例あり、注意を要す」(42年11月13日)

 これはガダルカナル攻防戦での発言です。
 日本軍は、戦艦二隻でガダルカナル島の米軍飛行場に艦砲射撃を加えます。一度、成功したので、軍部はもう一度やろうと上奏(大臣などが天皇に意見をいうこと)します。このとき天皇は日露戦争のときの例を引きつつ軍部に注意を喚起します。
    「初瀬」「八島」は、日露戦争で旅順港を攻撃した日本戦艦で、旅順攻撃でなんどか同じコースを通ったためロシア軍に機雷をしかけられ沈められました。

 天皇はこの教訓をよく知っていて、艦抱射撃のときは同じコースになりがちだから、二回目は気をつけろ、といった。しかし、このときも天皇の指摘どおり、日本の軍艦は米軍に沈められるんですね。

 昭和天皇はかなりの「戦史好き」で、軍人としての高度な教育は、決して形式的では、なかったのです。
 同時に、大元帥として大所高所からものを見ています。

 「如何にして敵を屈服させるかの方途如何が知りたい点である。事態はまことに重大である。ついてはこの間題は大本営会議を開<べきであると考える。このためには年末も年始もない、自分は何時でも出席するつもりである」(42年12月2日日)

 日本軍がガダルカナル島撤退をよぎなくされたことについての天皇発言です。ガダルカナルにこだわるよりも全局を見て、「どう敵を屈服させるか」を考える。局面打開のためには、年来年始もない、大本営会議を開こうと、対策を促すわけです。

 このときばかりではありません。天皇は、戦局の大きな局面では、かならずといっていいほど、大元帥としてどうしたらいいか、をよく考え、いつなにが効果的か、タイミングをはかって発言しています。

 ガダルカナル撤退のときには、軍を激励するために非公開で勅語まで出しています。天皇がいちばん恐れたのは、負けをきっかけに軍の士気が下がることなんですね。とくに司令部がやる気をなくしてしまうことが大元帥としては怖い。そこを防ぐのが自分の役割だと、よく認識していたのです。
 しかし、四三年になって負けが続いてくると、天皇自身に余裕がなくなります。

 「米軍をぴしゃりと叩<事はできないのか」「ぢりぢり押されては敵だけてはない 第三国に与へる影響も大きい一体何処でしっかりやるのか 何処で決戦をやるのか」「今度は一つ今迄の様でなく米側に『必勝だ必勝だ』と謂はせない様に研究せよ」(43年日月5日)

 「ぴしゃりと叩けないか」といった言葉は、この年の六月ごろからさかんに出てきます。ガダルカナル撤退以来ズルズル後退している、こんな戦争を続けると、将兵の士気も衰え、第三国に与える影響も大きい─。
 ここには軍人・天皇の攻勢主義・積極主義の姿も浮かびます。受動的に戦争をするのでなく、もっと能動性を確保しろ、という天皇の軍事思想もにじんでいます。

◇「天皇は戦争の実態をしらなかった」のか?
 
「軍部が情報を隠し、天皇は実態を和らなかった」という意見も強くあります。
 軍部(大本営)が天皇にどういう情報を上奏していたかは、防衛庁に史料として残っています。
   それを調べると、天皇に上がった情報の質はかなり高いですね。

 かならずしも都合の悪いことを隠していません。日本軍の損害状況もリアルに報告されています。軍艦の沈んだ数だけでなく、輸送船の損害まで、なにを積んだ船が、どういう原因で沈められたかまで、かなり詳細です。

 戦況が激しく動くときは、一日に何回も報告されました。「公式報告」以外にも、電報などを直接見ることもあったようですから、戦況はほとんど速報的に天皇に伝えられていました。

 天皇自身もそれをよく記憶していた。あるとき軍部が米空母を沈めたと報告します。そのおとまた同じ空母を沈めたと報告をする。前の報告が違っていたわけですが、このとき天皇は「前に沈めたのではなかったのか」と問い返すんです。それで軍上層部が大いに困った、という証言記録もあります。

 「天皇は知らされてなかった」という議論は、戦争責任は軍部だけにおる、とするために意図的につくられたもので
す。
※(「大元帥・天皇の実像に迫る」 山田朗「赤旗」1995/5/17)から

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