牛島軍司令官訓示                「意訳」             「解説

       訓     示

    国歩漸ク難キ秋死生ヲ偕ニスヘキ兵団長ト一堂ニ会シ其ノ雄風ニ接シテ所懐ヲ開陳スルノ機ヲ得タルハ本職ノ寔ニ本懐トスル所ナリ 曩ニ本職八雲立ツ大内山ニ召サレ乏シキヲ軍統率ノ重責ヲ享ク 恐懼感激何ヲ以テカ之ニ換ヘン

    惟フニ曠古ノ危局ニ直面セル皇国カ驕米ヲ撃滅シテ狂瀾ヲ既倒ニ回スヘキ天機ハ今ヤ目捷ノ間ニ在リ 而シテ軍ノ屯スル南西ノ地タル正ニ其ノ運命ヲ決スヘキ決戰会戦場タルノ公算極メテ大ニシテ実ニ皇国ノ興廃ヲ雙肩ニ負荷シアル要位ニ在リ 仍チ本職深ク決スル所アリ

    恭シク明勅ヲ奉シ慎ミテ前官ノ偉蹤ヲ踏ミ堅ク部下将兵ノ忠勇ニ信倚シ荘厳ニシテ雄渾ナル会戦ヲ断行シ誓テ完勝街道ヲ驀進シテ聖旨ニ対ヘ奉ランコトヲ期ス
之カ為茲ニ本職統率ノ大綱ヲ披瀝して要望スル所アラントス

第一 「森厳ナル軍紀ノ下鉄石ノ団結ヲ固成スヘシ」
    常住座臥常ニ勅諭ヲ奉体シ之ヲ具現ニ邁進スヘシ
特ニ上下相共ニ礼儀ヲ守リ隊長ヲ中心トシテ融々和楽ノ間明朗闊達戦闘苛烈ヲ極ムルモ一糸乱レサル鞏固ナル団結ヲ固成スヘシ 然レトモ非違アラハ断乎之ヲ芟除ニ些ノ躊躇アルヘカラス

第二 「敢闘精神ヲ発揚スヘシ」
    深刻ナル敵愾心ヲ湧起シテ常在戦場ノ矜持ノ下作戦準備ニ邁進シ以テ必勝ノ信念ヲ固 メ敵ノ来攻ニ方リテハ戦闘惨烈ノ極所ニ至ルモ最後ノ一兵ニ至ル迄敢闘精神ヲ堅持シ泰 然トシテ敵ノ撃滅ニ任セサルヘカラス

第三 「速カニ戦備ヲ整ヘ且訓練ニ徹底シ断シテ不覚ヲ取ルヘカラス」
    敵ノ奇襲ニ対シ備ヘツツ築城ノ重点主義ニ徹シ時日之ヲ許サハ之ヲ普遍化シ難攻不落 ノ要塞タラシムルト共ニ訓練ヲ精到ニシテ精強無比ノ鋼鉄軍タラシメ以テ敵ノ奇正両様 ノ猛攻ニ遇フモ断乎之ヲ撃滅スルヲ要ス

第四 「海軍航空及船舶ト緊密ナル協同連繋ヲ保持スヘシ」
    今次作戦ノ成否ハ陸海空船四者ノ協同に懸ルコト極メテ大ナリ 宜シク進テ関係部隊 ト連絡シ特ニ精神的連繋ヲ保持シ之カ統合戦力ノ発揮ニ努ムヘシ

第五 「現地自活ニ徹スヘシ」
    極力資材ノ節用増産貯蓄等ニ努ムルト共ニ創意工夫ヲ加ヘテ現地物資ヲ活用シ一木一草ト雖モ之ヲ戦力化スヘシ

第六 「地方官民ヲシテ喜ンテ軍ノ作戦準備ニ寄与シ進テ郷土ヲ防衛スル如ク指導スヘシ」
    之カ為懇ニ地方官民ヲ指導シ軍ノ作戦準備ニ協力セシムルト共ニ敵ノ来攻ニ方リテハ軍ノ作戦ヲ阻碍セサルノミナラス進テ戦力増強ニ寄与シテ郷土ヲ防衛セシムル如ク指 導スヘシ

第七 「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」

右訓示ス
尚細部ニ関シテハ軍参謀長ヲシテ指示セシム

昭和十九年八月三十一日 軍司令官 牛島 満

             

意訳
 戦局が難しくなっている時、生死を共にすべき兵団長と一堂に会し、その堂々の姿に接し、私の考えを述べるこの機会は、私にとって最高の名誉である。

 私は皇居に呼ばれ、微力ながら軍の統率の重責を命じられた。この感激は何とも言いようがない。

 思うに、未曾有の局面に直面している我が皇国が、傲慢な米国を撃滅する起死回生の機会は目の前にある。我々が結集した南西諸島は正にその命運を決する絶好の決戦場であり、諸君は皇国の興廃を双肩に負った重要な位置にいるのである。このことを私は深く決意している。

 勅命を受けたからには、前任者の偉業を受け継ぎ、部下将兵の固い忠君を信じて、勇ましく雄々しい戦いで完勝街道を進み、天皇陛下の聖旨に報いたいと思う。

 このために、私が本軍を統率する方針を述べる。

第一 「秩序正しく厳かな軍紀の下に鉄壁の団結をすべきである」

勅諭を奉り、常にその具現化に邁進すること。
特に、上下共に礼儀を重んじ、隊長を中心にまとまり、明朗闊達、戦闘が激しくなっても一糸乱れぬ強固な団結力をつくること。しかし、規律を破るものに対しては断固としてそれを除くことである。

第二 「敢闘精神を発揮すべきである」

  すばらしい敵愾心をもち、常に戦場にいるつもりで作戦準備に努め、必勝の信念を固めること。敵の攻撃に対しては、たとえ戦闘が激しくなっても、最後の一兵にまで敢闘精神を忘れず堂々と敵の撃滅に立ち向かうことである。

第三 「速やかに戦備を整え、且つ訓練にも徹して、決して不覚をとるべきでない」

 敵の奇襲に備えて守りに重点をおき、時間の許す限りこの方針を進め、難攻不落の防備をすること。同時に訓練も怠りなく、かつて無かったような強力な部隊を作り上げ、敵のいかなる攻撃にも対処し、撃破することが大切である。
第四 「海軍、航空、船舶とも緊密な連繋をもつべきである」

  今回の作戦の成否は、陸軍、海軍、航空、船舶の四者の協同に負うことが大きい。従って、関係部隊が積極的に連繋をとりあい、特に精神的な連繋を密にすることによって統合戦力が最大限発揮できるように努めることである。

第五 「(あらゆる戦備については)現地の自活に徹すべきである」

 資材の節約、増産、貯蓄に極力努めること。そして、創意工夫をして現地物資の活用をし、一木一草といえども戦力に使うことが大切である。
第六 「地方官民が軍の作戦に協力し、郷土防衛に当たるように指導すべきである」

  そのために、地方官民に対しては軍の作戦準備に協力させるよう、そして、敵の攻撃があった時は、軍の作戦の邪魔にならないだけでなく積極的に戦力増強に協力させるよう、日頃から指導することである。

第七 「スパイには極力注意すべきである」

  以上、訓示する。
  なお、細かいことに関しては参謀長を通して指示させる。

   昭和十九年八月三十一日             軍司令官    牛島  満
 
               

解説

〇三二軍が沖縄で設立された時に、日本軍は各戦線で敗退の一途をたどっていたことがこの「訓示」からも分かる。実際、三二軍は泥縄方式に設立された守備軍であった。三二軍は、「絶対国防圏」の守りの一角として、主として航空基地としての役目を負って設立された。ところが、米軍の進攻が早く、大本営は、三二軍の方針を転換した。しかし、その方針は初めから徹底していなかったし、現地沖縄の三二軍とも連繋していなかった。またその不徹底さは、三二軍の所属にも言えるし、作戦目的においても言えた。

    当初三二軍は、大本営の直属として発足させたが、次に西部軍(九州)の下におき、最終的には第十軍(台湾)に移した。それは大本営の作戦方針の揺れを物語っている。

〇部隊の配置についてもそれがいえる。
 昭和十八年五月、大本営は方針転換に伴い三二軍を決戦部隊へ大幅に改編したが、その部隊も徐々にしか配置されなかった。しかも、配置した部隊が態勢を固め作戦準備を終えたころ、一師団(第九師団)を台湾へ異動させるなどちぐはぐである。レイテ島沖作戦のために、大十軍(台湾)から二個師団を異動させた穴埋めとして九師団を異動させのだが、九師団の補充は大本営で拒否された。したがって現地部隊は配置転換を余儀なくされて、改めて部隊の再構築となった経過がある。

〇このような中で牛島司令官は着任した。当然のことながら、前任者の負っていた任務とは大きく違った決戦部隊としての三二軍の司令官であるから、それ相当の抜擢であったことは否定できない。そして、着任の「訓示」がこの資料である。
    この資料には、沖縄戦の性格を解明していくために、幾つかの大切なボイントがある。全体的には、一般的な軍人の訓示という体裁をとっているが、「沖縄守備軍」としての役目を負った三二軍の司令官牛島の隠された内面を表した項目がある。

    第一は沖縄戦が日本の仕掛けた太平洋戦争を含む十五年戦争の最終段階であることを認識していたこと。第二は、それと関連した形で、沖縄戦は当時大本営が描いていた「本土決戦」を有利に展開させる条件を引き出すための「予備戦争(捨て石作戦)」であったこと。第三は、沖縄戦が守備戦に徹していたこと。第四は、沖縄県民を犠牲にする戦闘であったこと。第五は、沖縄県民差別の戦闘であったこと。

 以下それらの点について述べる。

〇第一…「国歩漸ク難キ秋」「曠古ノ危局ニ直面」
 大本営は前年(昭18)、「絶対国防圏」(千島・小笠原・マリアナ諸島・西部ニューギニア・スンダ・ビルマを結ぶ線)を設定して、これまでとった拡張戦略を防衛戦略に切り換えた。しかし、牛島が三二軍の司令官として着任した時には、サイパン島の日本軍が玉砕して「絶対国防圏」の一角は既に失われていた。しかも、米軍のB29の本土空襲が既に始まっていた。天皇の証言等によっても、沖縄戦が日本軍の命運を分ける決戦として位置づけられていたことがわかる。
    
〇第二…「南西ノ地タル正ニ運命ヲ決スヘキ決戦会戦場」
    大本営が三二軍を決戦部隊として改編したのは、昭和十九年五月である。その方針にそって五月三日に編成されたばかりの独立混成四四旅団(本島)、同四五旅団(石垣・宮古)に加えて、第九師団(本島)、第二八師団(宮古)、第二四師団(本島)、独立混成第六四旅団(本島)、第六二師団(本島)、独立混成第五九旅団(宮古)、第六旅団(宮古)を次々と編入したが、最後の六二師団、五九旅団、六旅団の編入が七月二四日である。その二週間後、牛島司令官の着任となる。この状況は牛島にとって相当の決意を抱かせるには十分であった。

    なお、最後牛島と共に自決した長参謀長は、七月八日に着任して上記部隊の受け入れを指揮し、三二軍の新たなスタートを切っている。

〇第三…「築城ノ重点主義ニ徹シ…難攻不落ノ要塞タラシム」「敵ノ奇正両様ノ猛攻」
    訓示の中にある「築城ノ重点主義」「之ヲ普遍化」等からも伺えるように、沖縄戦の主要な作戦の根幹は「守り」であったと言えよう。その原因は日本軍全体の戦局と大きく関わる。戦局の不利な展開によって守りの態勢に転換せざるをえなかったし、「絶対国防圏」の死守も作戦へ影響している。

 もう一つは、本土決戦に備えての持久戦を設定していることである。持久戦は大本営の大命題であった。牛島が司令官に任命された時、阿南陸将(担当大臣)に「玉砕はするな」と強く指示されている。そのことは牛島が沖縄戦を進める基本姿勢となっている。持久戦に持ち込むために米軍の上陸を迎え撃つ作戦はとれない。この作戦は勝てば良とするが、負ければ玉砕となりリスクが大きすぎた。

    当初、牛島は短期決戦で米軍の上陸を阻止する作戦計画だったが、米軍の進攻の速さに大本営の方針が転換されたのも知らされず、第九師団の穴埋めもない対応の結果として「守備態勢」が生まれたという設もある。

〇第四…「現地自活ニ徹スヘシ」「懇ニ地方官民ヲ指導シ軍ノ作戦準備ニ協力」
沖縄本島を含む南西諸島は離島の集合体である。そのことは、軍備を含む物資の輸送に大きなデメリットとして存在する。この地理的条件を原因の一つにあげざるを得ないのは前述の日本軍全体の戦局の不利な状況による。

    大本営が沖縄戦の方針を転換し、増強をはじめた頃には、米軍の作戦範囲は既に日本の領海内に及んでいた。独立混成第四四旅団、第四五旅団の沖縄配備の輸送船が昭和一九年六月、続いて牛島の着任後の八月二三日「対馬丸」が米軍の潜水艦によって撃沈される等、本土沖縄ラインは危険要素が大きくなっていた。
    もう一つは、戦局の不利は国内の物資不足となっても現れた。本土決戦のための物資調達さえままならない状況を迎えていたから、沖縄戦のための補給など考えにもなかった。第九師団を台湾に異動させた後の部隊の補給さえ拒否されている。牛島は内外の状況から、必然的に現地自給主義を取らざる得なかったとも言えよう。

    そのために牛島がとった策は、沖縄県民を最大動員して物資を増産させることと、逆に消費を最大限減らすことであった。最大動員は、物資の増産のみならず、兵力としても自活にも繋げた。一七歳から四五歳の男子を「防衛隊」として召集し、それ以下の男子を各市町村単位に「義勇隊」として組織、中等学校男女生徒を学校単位に「学徒隊」に、女子青年団を「救護班」にそれぞれ編成して軍に組み込んでいった。その結果、三二軍約十万のうちその三分の一は現地召集の一般県民であった。また、「在郷軍人会」は防衛隊」を結成、壕構築や断崖造りその他で動員している。
    
    一方、消費を最大限抑えるために、県に「疎開促進特別援護室」を設置して老幼女の県外疎開を進めた。つまり、増産と消費の抑制を同時にすすめたことになる。それはとりもなおさず、持久戦の布石と繋がるものであった。戦力に使えるものは徹底動員し、使えないものは排除するという県民軽視の方針が貫かれていたのである。
    
    それでも県民は、軍に協力は惜しまなかったし、疎開に関してはその意図を知ってか知らずか、友軍(日本軍)の近くにいた方が安心、という気持ちが大きく働いて県外疎開を渋るものも多かった。そのことは県内疎開についても同様であった。結果的にそのことが泥沼化した沖縄戦の終盤、住民の戦死者を増大させた悲惨の布石となった。

〇第五…「防諜ニハ厳ニ注意スヘシ」
    この項目だけ説明が付いていないが、意味は明快である。「忠勇なる部下である将兵」と沖縄県民しかいないこの小さな島で、「スパイ」視されるのは県民である。(若干の他府県人─寄留商人・県庁職員・教員等─がいたが、昭和一九年六月頃から戦局の不安に引き揚げを開始している)。当時の社会的背景から、沖縄蔑視の風潮や明治政府の取った琉球処分等によって沖縄差別の意識は強かった。

    沖縄方言や風土、生活習慣、独特の文化等により、他府県人の沖縄に対するこれらの感情を利用した一種の思想教育ともいえよう。 これらの差別意識と「訓示」は、例えば、鹿山(久米島電波探知機部隊長)の通達文書にみられる「妄リニ之(米軍の宣伝ビラこと)ヲ拾得私有シ居ル者ハ敵側『スパイ』ト見做シ銃殺ス」に伴った「スパイ事件」のみならず、国頭郡にあった秘密民間諜報組織である「国士隊」の文書「国頭支援秘密戦大綱」(「反軍」等五つの項目を調査し軍に報告していた)などによる県民監視への道を開いた。

    また、米軍上陸後、三二軍司令部軍会報に「軍人軍属ヲ問ワス標準語以外ノ使用ヲ禁ス 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トシテ処分ス」が載っている。このような日本軍(兵)による県民に対する徹底した防諜の目が、沖縄戦全体を通して沖縄県民への迫害として随所に現れる(「住民虐殺」「集団自決の強要」、ガマ追い出し等)。
    
    そもそも県民をスパイ視することは、前項の第四と深く関わってくる。つまり、現地自活主義は前述のとおり沖縄県民の最大動員をもたらした。多くの県民が、日本軍に直接間接組み込まれていった。その事自体軍の機密に触れる機会が多くなることを意味する。軍に組み込まれて協力させられた結果スパイ容疑が深まるという、そのジレンマの最大の犠牲が沖縄県民であったわけである。    
 

戻るトップへ