見出しボタン 沖縄戦とガマ(壕)

ガマは何を語るか ガマの呼称と役割 南部 ・那覇のガマ所在地図(01・11更新)

ガマは何を語るか

1 日本軍(兵)とガマ

 日本軍がまだ組織的な抵抗戦を行っていた頃は、三和地区のガマはまだ平穏であった。首里の軍司令部が組織的に崩壊し、南部撤退(五月下旬)以降様相が一変する。ガマを中心とした戦争遂行の建て直しを計りながらも、日本軍は急速にその組織を崩壊していく。同時にガマも、これまでの機能(避難壕、病院壕、軍隊壕、弾薬貯蔵庫、)を失い、避難壕としての機能を拡大させていった。それは、地元住民と避難民、学徒隊、日本兵の雑居を意味し、日本兵の蛮行も随所で行われるようになる。俗に言われる日本兵による住民虐殺等である。

 ガマ追い出し、住民スパイ容疑、幼児の惨殺(斬殺、絞殺、毒殺等)、住民銃殺、米軍攻撃のつい立て、食料強奪、封じ込め、住民投降妨害等が無数に行われている。戦争遂行組織の中に組み込まれた兵士集団に、個の発現はない。天皇を頂点とする皇国史観に立脚した日本軍であれば、尚更のことである。しかし、組織的崩壊をきたしたことによって日本軍は消滅し、日本兵として個々の行動をとるようになる。

 ガマでの日本兵の行動は、日本軍という強大な軍隊の亡霊を背負った兵士たちの蛮行がほとんであった。中には一部だが、この亡霊から解き放された個の人格の発露として、人間性の滲み出た行動をとる日本兵もいた。もちろん、一人ひとりの個としての行動が、日本軍という強大な蛮行を精算できるわけはない。

 もし、ガマが無かったらどうなっていたのだろうか、と。歴史の解釈に仮定は成立しないことは百も承知だが、犠牲の多くは、ガマの存在を抜きにして考えることはできない。

 ガマがその機能を失い、避難壕化していった頃から、戦死者は増えていった。一方、ガマの中で辛うじて命をとりとめた人々は、戦後「ガマのおかげで助かった」と証言している。

    ガマに入れて貰えずに、入口付近で親子共々艦砲で殺された家族があったことを、ガマの中で死を免れた人々が証言している。それほど米軍の艦砲は激しかったのである。しかし一方、ガマの中で殺され死んでいった人々には、その証言が出来ないのである。   

 ガマの存在が人々の生死を分けたという視点ではなく、日本軍による沖縄戦引き延ばし作戦は、ガマの存在によって生まれたのではないだろうか。
 
   第三十二軍が首里撤退を決めた時、三案の選択肢があった。一つ目は現状撤退しない、二つ目は知念半島へ撤退、三つ目は喜屋武半島へ撤退である。それぞれの師団長は自らの守備陣地への主張をしたが、結局喜屋武半島に決定された。その理由は、道路が精微されていることと、ガマが多いことであった。道路は撤退のためであるが、ガマはその後の作戦にとって不可欠だという判断があったからである。

    その時点で既に二十万人の住民が閉じ込められていた喜屋武半島で、第三十二軍はガマを使った戦闘作戦をイメージしていたのである。住民の生死がガマと日本軍の戦闘行為に巻き込まれしまったのである。
 ガマの中で死んでいった人々の命を思う時やはり「ガマは本当に人々の命を救ったのだろうか」と問い直したくなるのである。

2 米軍とガマ

 ガマの持つ悪夢の数々は、日本軍との関係の他に米軍との関わりがある。米軍は様々な火器類を駆使して圧倒的戦果を挙げながら、日本軍を喜屋武半島に追い詰めていった。

米軍はガマ攻撃に対して一定の原則をもっていた。その一つが住民と日本兵の区別である。ガマの中に住民の存在が確認されると攻撃を止め、投降を促している。また、日本兵が虐殺の対象の一つとしていた幼児の泣き声も、米軍にとっては攻撃を中止する理由の一つになっていた。

 この米軍の攻撃に対して、アメリカ兵よりも日本兵が怖かったという証言は多い。ガマの中における日本兵の残虐性と米兵を比べるとその通りであろう。しかし、それは、一側面しか言い得ていない。密室同様のガマの中における目撃は、強烈な刻印として残る。住民がガマの中で対峙した日本兵の蛮行は直に目撃されているのである。        

 一方米兵は、ガマに入っていない。しかも投降した住民のみが米兵の厚遇を受けているのである。しかし、ガマの中で米軍により様々な攻撃の対象となって殺された人々にはその証言の機会は与えられていないのである。前述したガマの存在によって命が助かったかどうかの自問と同じジレンマが、この場合も顔を出すのである。           

 現に、投降を呼びかけてもそれに応じなければ一転して、容赦無い攻撃を続けた。馬乗り、催涙ガス、黄燐弾、手榴弾、火焔放射等による攻撃が多く、時にはガソリンを流して火を放つなどもしている。また、三和地区では、国吉部落、真栄里部落が米軍の無差別攻撃を受けている。バグナー中将の戦死の報復攻撃であった、と一時期言われたこともあるが、それほどすさまじい猛攻撃であったことが証言されている。    

 このようなことからしても、日本軍に比べて米軍がやさしかった云々が成立する根拠は何もない。あるのは、戦場に放り出された人間一人ひとりが、それぞれの違った戦争体験を持っているという事実だけである。

 沖縄戦の実相は、十把一からげに表現できるものではない。生き残った人、死んでいった人それぞれの戦争体験があり、その人の沖縄戦があるのである。特に、ガマにおける戦争体験は、一般化するにはあまりにも一人ひとりの体験が特殊である。同一のガマでも時間の経過によって違った状況があり、また、同一時間帯でも、ガマによって違った状況があった。時間と空間の変化によって、一人ひとりが翻弄されていた状況が浮き彫りにされている。         

 生き残った人たちの体験証言と、死んでいった人たちの思いを重ねて初めて沖縄戦の実相が浮かんでくるのではないだろうか。死んでいった人たちの思いをどう重ねていくのか課題は大きい。 

3 住民とガマ

 日米の戦闘に巻き込まれた住民は、米軍の攻撃に晒されガマに避難し、ガマでは日本兵の恫喝に直面し怯えながら、長期にわたって生死の境を彷徨っていた。

 かつてない体験の中で、図太く開き直り、日本兵とわたり合う住民もいたし、「命どぅ宝どお」と言いながら自ら先頭に立って投降した老婆もいた。しかし、長いガマ生活に耐えきれずに障害を受けた身内を、自らの手で絞殺した人もいた。周囲に対する気兼ねからである。わが子を殺した母親にしても同様であろう。また、絶望のあまり家族親族が「集団自決」に及んだ例も報告されている。  

 長いガマ生活の中では、日本兵や米兵との関わりだけでなく、住民同士の関係から生まれた悲惨な行為も少なくない。人間が人間でなくなる状況というのは確かに存在したのである。密室状態のガマの中では、加害と被害、強者と弱者その他様々な要素の絡み合いで異常な人間関係が横たわっていたのである。 

 戦場という異常な状況の中のガマの中という密室状況について、今生きる我々には想像を越えた特異な人間行為の異常さがあったとしか言いようがない。そして、そのような状況の中では、敵に殺されるよりは、また、残虐な日本兵に殺されるよりは、身内を自らの手で・・・という判断が働いたとしても不思議はない。また、殺される側の身内にしても同様な感情に陥ったとしても不思議はない。誰もその行為を責められない。

4 ガマの今後

 沖縄戦の実相を解明するために、重要な位置を占めるガマは、戦後五十年余の間に崩落したものや土地改良等により埋没したものなどが多い。人為的に埋め土されたガマもあり、また、遺骨収集やその他のために発掘されて原型を留めないものもある。今後何らかの対策を講じる必要があり、現在でも入壕できる残存壕は数少なく、この対策が急がれる。 

 ガマの保全は、沖縄戦を伝承していくために不可欠である。そのために個々のガマにおける証言集めやすでに公表されている証言の検証と整理が必要である。そのことによって沖縄戦におけるガマの実相がより一層明らかにされてくるのである。         

 次に、ガマの戦跡文化財指定を行うことである。そのために代表的なガマの調査を各専門分野─歴史学・地質学・戦跡考古学・土木工学・民俗学・軍事史─から行う。そして、その調査に基づきそれぞれのガマにおける証言を重ね沖縄戦の実相を浮き彫りにしたガマを選定する。

 沖縄戦と日本軍、沖縄戦と米軍、住民と日本兵、住民と米軍、沖縄戦と住民等の観点に合致するガマ等の指定である。沖縄戦の実相の様々な要素を兼ね備えたガマは、この地にしかないと言えよう。それは、激戦地としての悲惨な歴史を刻んだ地域であったという証だが、それを将来への遺産として後世に伝えることは、現在の我々の責務だと考える。

 最終的には、県立平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館との有機的結合を図りながら、それらのガマを平和学習の場にすることである。そのためのガイドブックも必要となる。

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