学徒隊関係の部

開南健児之塔 沖縄師範健児之塔 一中健児之塔 二中健児の塔
三中学徒之碑 南燈慰霊之塔 農林健児之塔 ひめゆりの塔
ひめゆり学徒散華の跡 第一外科壕跡 梯梧之塔 白梅之塔
ずゐせんの塔 鎮魂之碑

1 開南健児之塔              糸満市字米須       
◆設置管理 開南中学同窓会

碑文
開南鉄血勤皇隊 270名が、山3430部隊(第24師団司令部) 山3482部隊( 通信隊)山3475部隊( 歩兵第32連隊) に、それぞれ分散配属され、熾烈な戦線に奮闘し90名が戦没す。この慰霊塔には開南同窓生及教職員全戦没者 (15年戦争も含む) が合祀されている。              

2 沖縄師範健児之塔            糸満市字摩文仁     
◆ 設置管理 沖縄師範健児之塔遺族会

碑文
 昭和20年 3月31日、第二次大戦の最中、沖縄師範学校全職員生徒は、軍命により、第32軍司令部の直属隊「鉄血勤皇師範隊」として軍に動員された。 然るに同年 6月22日、南西諸島方面軍最高司令官牛島満中将が自決するに及び、師範隊は解散するに至ったが、この間、総員 480名中 300有余名が守備軍と運命を共にしたのである。
生存者達の手によって「慰霊の塔」が建立されたのであるが更に、太田昌秀、外間守善編「沖縄健児隊」の出版並びに同名映画の上映記念事業として、廣く江湖の有志の方々の御後援の下に、この「平和の像」は建てらたたのである。若い身命を捧げて散った師友達の冥福を祈ると共に、それらの尊い殉死によって齎らされた平和への希願を永久に伝へるべく生存者達は心から祈るものである。  
          発起者一同     

歌碑
                                                 渕上 房太郎(昭和29 献)
 ひとすぢに お久にまもらん わかうどら いのちはてにき えりをたださむ   
                                     仲宗根 政善    
 南の巌のはてまで守り来て散りし龍の児雲まきのぼる               
                                              北白川 祥子                     
 石ふみに名をはとめて 永久に島守りませ若きみたまよ
 師と友とここのいほりにたふれたる若き命の惜しまれるかな        

3 一中健児之塔               那覇市首里金城町
◆設置管理 養秀同窓会

碑文
 一中健児之塔は、先の大戦で学業半ばにして散った職員17柱、生徒200余柱の英霊を合祀する。
 この地は、昭和15年、県立第一中学校(首里高等学校の前身)創立60周年記念事業として建設された養秀寮の跡地であり、昭和20年3月27日敵軍を目前にして最後の卒業式が挙行され、鉄血勤皇隊が結成された地である。
 県内の各中等学校は、昭和19年10月10日の那覇大空襲以後は、軍事教練のほかは学業は全く停止され、昭和20年3月25日ついに軍から学徒動員令が発せられた。
 学徒によって組織された鉄血勤皇隊、通信隊は、陣地横築、通信、伝令その他の任務に従い、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、終始軍と行動を共にしてその責務を遂行し、壮烈な戦死をとげたのである。
             社団法人 養秀同窓会

4 二中健児の塔                   那覇市楚辺
◆二中健児の塔期生会

建立の詞
1945年、第二次世界大戦の終末戦となった沖縄戦において沖縄県立第二中学校職員生徒は軍命により、或いは鉄血勤皇隊として、北部の防衛に当り、或いは通信隊に参加して首里以南の山河に馳駆し、その他防衛隊又は軍属として各地に勇戦奮闘中、表記の勇士はついに壮烈なる戦死を遂げられました。
 茲に、母校及びその後継那覇高等学校職員生徒、同窓会員遺家族並びに一般有志相諮り、曽ってはスポーツに競った奥武山の此のゆかりの聖地を卜し沖縄県立第二中健児の塔を建立して以て英霊の至誠を追慕し、冥福を祈り永遠の世界平和を祈願するものであります。
 1957年12月29日  二中健児之塔建設期成会
※尚1990年11月22日、創立80周年記念事業の一環として奥武山より、二中の象徴 城岳に新築移転した。この塔は同窓28期成、故山里昌弘氏のデザインである。
 二中鉄血勤皇隊は北部宇土武彦大佐指揮、独立混成第44旅団、第2歩兵隊(球7071部隊)或いは第62師団通信隊(石3599部隊砂川玄一郎大尉指揮)、その他の部隊にも分散配属させられ、軍と運命を共にし、北部、中部、南部と、職員9柱、生徒168柱が戦没した。

5 三中学徒之碑                 本部町字並里
◆設置管理  三中同窓会

碑文
 太平洋戦争も末期の昭和20年3月米軍の烈しい砲爆撃の中を沖縄県立第三中学校生徒数百名は軍命により通信隊要員または鉄血勤皇隊員としてあるいは繰上現役入隊の形で郷土防衛の戦列に馳せ参じた。
 4月1日 米軍が沖縄本島に上陸するや陸上戦の火蓋は切って落され我が三中の生徒は此処八重岳真部山地区そして多野岳その他各地において圧倒的に優勢な米軍と果敢な戦闘を展開し、数十名が、あたら十代の若き生命を無惨にも散らしてしまった。
 彼等の33回忌を迎えるに当り、学業半ばにして斃れ諸々の思を残して逝った彼等の霊を慰めるとともに平和の礎となって散華した彼等の死を永く後世に伝え二度と再び、かかる残酷悲惨な戦争を惹起することがないよう 我等はもとより子々孫々に至るまでの永遠の戒としてここにこの碑を建立する。
 諸霊よ安らかに眠り給え
   我等は常に諸霊と共に在らん
      昭和52年4月16日
      沖縄県立第三中学校生存学徒一同

6 南燈慰霊之塔               名護市名座喜原
◆ 設置管理  南燈同窓会

碑文
1956(昭和31)年1月21日
     三中健児之塔建立
1972(昭和47)年6月23日
なごらん同窓会(元三高女)、南燈同窓会へ加入 同会員の御霊も合祀される
 1989(平成元)年8月26日     南燈慰霊之塔改名工事完了

7 農林健児之塔(同窓会) 嘉手納町字西原
◆設置管理  旧沖縄県立農林学校同窓会

碑文
校歌
見よ球陽の青天に 図南の翼拡げつつ 集ふ数百の健男子 文武の庭におい立ちて 血潮高鳴る腕を磨し 進む理想の道清し

8 ひめゆりの塔            糸満市字伊原      
◆設置管理 ひめゆり同窓会

ひめゆりの塔の記         
 昭和20年 3月24日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒 297名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。    
 戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。
 日本軍の首里撤退もせまった 5月25日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南にくだって後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
6月18日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った 5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人 6名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の 3分の 2がこうして最期をとげたのである。              
 戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和21年 4月 7日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名、生徒 208名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点 とする。
 乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。

歌碑                      
いわまくらかたくもあらむやすらかにねむれとぞいのるまなびのともは       
                       仲宗根 政善     
ひめゆりのいさおたたふる石ふみにすがる小草をあわれとぞ見る
                                                   北白川 祥子                                             
9 ひめゆり学徒散華の跡      糸満市字上里(荒崎海岸)  

歌碑
島はてに華と散りにしいとし子よ夢安らけく眠れとぞ祈る     瀬良垣宗十  
巌かげに一すじの黒髪乙女ごの自決の地なり波もとどろに     仲宗根政善
   1945年 6月21日 教諭 3名、生徒13名この附近にて没す           
 
          1972年 8月15日 再建

10 第一外科壕跡             糸満市字伊原       
◆設置管理 沖縄陸軍病院慰霊会

碑文(ひめゆり同窓会)
 ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である。
米軍の迫まる1945年 6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋□夫教授以下多くはついに消息をたった軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点であるここで負傷戦没した生徒
古波蔵満子 荻堂ウタ子 牧志鶴子 石川清子 浜元春子 知念芳 神田幸子 比嘉ヨシ 照屋貞子            
藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する               

しらじらと明けそむる野を砲弾の雨に散りゆく姿目に見ゆ
血にそまる巌のしづくは地底にしみて命の泉と湧きて出でなむ
    1974年 6月   ひめゆり同窓会

11 梯梧之塔   糸満市字米須  
◆設置管理 梯梧同窓会

碑文
私立沖縄昭和高等女学校は、昭和 5年 3月15日山梨県出身の同校校長八巻太一氏によって那覇市崇元寺町に設立された。学校の近くに悌梧の並木道があって校歌にも「悌梧の花の緋の誠」と歌われている。悌梧の塔は昭和25年 8月 1日旧校舎に建立されたが、悌梧隊関係者の熱烈な希望により、昭和49年 6月23日ゆかりの地に元職員、同窓生、ご遺族の浄財で移転建立される。    
                  悌梧同窓会
歌碑                      
悌梧の塔に捧ぐいたましく二八に散りし乙女等の血潮に咲ける紅の花
                   故元第62師団長御令室 藤岡 豊子
ゆさぶりて碑をゆさぶりて思い切りきけどもきけぬ声をききたし         
一人来て抱きしめて見ぬわが友よ名刻まりし濡れし石文              
               同期生 故瑞慶覧 道子(旧我喜屋)     

12 白梅之塔                      糸満市字国吉 
◆設置管理 白梅同窓会

碑文          
 旧県立第二高等女学校の4年生54名で編成された白梅学徒看護隊は昭和20年 3月 6日第24師団第1野戦病院の衛生看護隊に入隊補助看護婦として特別集中教育を受けていたが米軍の艦砲射撃が熾烈を極めた同月24日から東風平村富盛にあった同師団の第1野戦病院に配置され、昼夜を分かたず傷病兵の看護に専念した。      
 戦況は日毎に激化し同年 6月 4日遂に解散命令が下り、白梅隊は散り散りになって、戦野を彷徨し、ひとりまたひとりと戦火に斃れその場所は殆ど不明である。解散後この地に後退して傷病兵の看護に当たっていた隊員は同年 6月21日米軍の猛攻を受けて無念の最後を遂げた。この辺一帯は白梅隊の最も多くの犠牲者が出た所とされている。     
 戦没した白梅隊員および沖縄戦で戦死あるいは戦争が原因で亡くなった教職員、生徒、同窓生※127柱の鎮魂と恒久の平和を祈念して昭和22年 1月白梅同窓会が建立した  
 毎年 6月23日の「慰霊の日」に例祭が行われる。                  
                     昭和58年 6月23日
           旧沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会          
句碑                                      
 「散りてなほ 香は高し 梅の花」
歌碑               
  「うら若き命惜しますたたかいてつらなり果てし御霊とおとし」          
                      北白川 祥子   
                      
13 ずゐせんの塔                糸満市字米須     
◆ 設置管理 端泉同窓会

碑文
    ずゐせんの塔は、第二次世界大戦沖縄戦で戦死した沖縄県立首里高等女学校看護隊並びに職員同窓会員の御霊を祭ってある。                      
 昭和20年 1月25日から軍医の講習を受け、引き続き合宿訓練に入った後、 3月27日野戦病院で卒業式を挙行、直ちに第62師団、石部隊野戦病院に配属され最前線の浦添から首里摩文仁へと負傷兵を看護しつつ、泥濘の中を弾雨に叩かれ、奮闘したが惜しくも散華したのである。           

歌碑                       
この道もこの岩肌も乙女らが弾にたたかれ踏み惑ひしところ  夕照   

14 鎮魂之碑                  糸満市摩文仁
◆設置管理者 上田繊維専門学校同窓生

碑文
 先の1941年〜1945年の太平洋戦争に於いて第一次、第二次学徒出陣に依り学業半ばにして戦陣に倒れ國の礎になった友の名をここに刻みます。安らかにお眠りください。合掌
    1998年4月
   上田繊維専門学校同窓生有志

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